『異人たち』感想

 他者との関係性の再解釈という内省を描き、いま世に溢れているハッピーでキラキラしたクィア作品は何を取りこぼしているのかを浮き彫りにした傑作だった。

 

 大体パンフに書いてあることと同じ感想だったので、主に家族関係の再構築とホモフォビアについて書きます。ネタバレがあります。

 

 

 

 主人公のアダムは両親を幼い頃に亡くし、ゲイであることから、他者との関係性をうまく築けず孤独を抱えている。その背後には「自分は愛されている」という感覚の欠落があり、精神的な自立ができない状態である。この物語ではアダムが両親との関係・ハリーとの関係の再解釈を行い、内省の旅をする。

 親と築いた関係性の再解釈は『ファンホーム』や『アフターサン』が同じことをやっている。「あの時、自分は親に愛されていたのかもしれない」「あの時、親は苦しんでいたのかもしれない」と、考えても答えのでないことに思いを巡らせる。そこには懐古だけではなくて「親と自分の関係性がこうであってほしかった」という願望と、親を慮り親の心に寄り添う気持ちが含まれている。『異人たち』では、アダムはこれに加えて「もし今の自分を見たらこう思うかもしれない」という想像と「自分が表現したものにこういう反応をしてほしい」という願望を想像上の親に投影している。そうしてアダムは家族関係の再構築と家庭の再生を目指している。

 イマジナリーペアレントなのだから自分の都合のいいように反応してもらえばいいものを、両親はアダムのカミングアウトに対して、露悪的でないにせよホモフォビアと拒否反応を示す。そうすることでアダムは自分の想像にリアリティを付与し、「望まないカミングアウト」をされる親の心に寄り添うと同時に、拒絶されることに少なからぬ安心感を得ているのだと思う。拒絶されることは何かしらを期待されていたこと(この場合は"当然"ヘテロであること)、気にかけられてはいたことの証左だからだ。

 ステレオタイプなゲイ像を押し付けられたりホモフォビアを受けたりしたいという願望は、アダム自身が経験し内面化したホモフォビアの恐怖を妥当だとする意味付けがあるのではないだろうか。ある出来事に対して自分が抱いた感情が妥当であるかを推し量ることは時に困難だ。ホモフォビアによって傷ついたアダムの心は、想像の中の両親に一度カミングアウトに拒否反応を示させることで「親でさえこういった反応を見せるのだから、他人なら尚更自分に酷いことをするはずだ」「だから自分が辛く感じるのは当然である」という妥当性をもつ。つまり、両親の世代なら拒否反応を示すことは仕方ないというリアリティと、そのような反応をしてしまう(であろう)両親への寄り添いに加えて、自分が傷ついてきたことの妥当性の証明にもなるのだ。

 そもそも、まず公園で父親に自分を見つけてもらうことが「親に自分の感情、特に苦しみや辛さに気が付いてほしかった」という欲求の表れではないだろうか。「自分が泣いていた時、父親は部屋に入ってきてくれなかった」という事実にも「父親も自分との関わり方がわからなかっただけだ」と理由を付けたいのではないだろうか。実際のところ両親がどこまでアダムを気にかけて寄り添っていたのか、生きていたらどれだけ寄り添ってくれたのだろうかはわからずじまいだ。両親それぞれとアダムの対話は、アダムの想像と願望による一人相撲に過ぎない。

 それでもアダムは両親からの受容を求め、それを(想像上であるにせよ)獲得することで、自己を受容することができるようになる。「両親にありのままの自分を受け入れられたい」「愛されたい」という欲求を満たし、ハリーと共にゲイとしての人生を歩み直そうとする。同時に両親の死を克服し、精神的自立を果たそうとする。アダムの立場はここで「ケアしてもらう/愛される」側から「ケアする/愛する」側へと転換する。ハリーを慮り愛情を見せることで、自分と同じように孤独や痛みを抱える人をケアしたい・他者を愛したいという欲求も叶えている。

 けれども両親もハリーもアダムの想像上の存在に留まっているわけで、客観的に見てアダムが他者との関係性を築き上げることができた・精神的に成長できたとは言い難い。一度できてしまったしこりは解消されたように見えても「しこりがあった」事実は消せないし、アダムにできることは結局のところ現状維持だけなのだ。そこには希望も絶望もない。ただ現実だけがある。ある一つの孤独(アダムの場合は両親の死)を克服できたとしても、他の要因からなる孤独を克服できるかは別の問題である。そして、アダムのような人は星の数だけ無数にいて、アダムと「生きた」ハリーが関係を築けなかったように、孤独と生きづらさを抱えた人同士でも繋がれない現状がある。 ただ、孤独を抱えていることそのものを否定的に描くのではなく、むしろ誰しもが孤独をもっていることを前提に、時にそれを克服する必要はないのかもしれないということを描いている点において、この作品は優しい。

 ここまで「両親とハリーはアダムの想像上の存在である」という解釈で書いたが、もちろん主体性をもつ幽霊のような存在として捉えることもできるだろう。ゴーストストーリーとして解釈するならば『ねじの回転』のような英国らしさをもった幽霊譚の印象を受ける。明かりが二つしか灯っていないタワーマンションは墓標のようであり、エレベーターの合わせ鏡は現実と虚構が入り混じる様を思わせる。結局どんな解釈をしようとも、誰(何)がどのように存在していて、何が真で何が偽なのかは不明瞭な物語だと思う。

 昨今「クィア」という言葉にはキラキラと輝いたイメージがあるが、この作品ではマンションの部屋の明かりやラストシーンの光は孤独の象徴として描かれている。本編でも言及されたように今はポジティブな意味で用いられる「クィア」という用語自体が元は侮蔑語として使われ、今も言葉を聞くだけでその痛みを思い起こさせられる人々がいる。ホモフォビアエイズなどによって、ヘテロでないこと=死という恐怖に曝されてきた人が突然「今はもう時代が違うんですよ」「あなたみたいなクィアも幸せな人生を送れますよ」と言われたとして、すぐにその環境に順応できるのだろうか。苦しい時代に取り残されてしまっている人はいないだろうか。

 私たちは今現在もホモフォビアに苦しめられている人がいることを忘れがちなのではないか。ハッピーなクィア作品はクィアをエンパワーすることを全面に押し出しているものの、こういったホモフォビアのリアルな痛みや苦しみを抱える人たちを取りこぼしているように思える。『異人たち』は昨年上演していた舞台版『ブロークバック・マウンテン』に続いて、そのような人々を掬い上げる作品だった。

 アンドリュー・ヘイは「人と人は完全には理解し合えない」という孤独と「それでも寄り添い合うことはできる」という慈しみの表現に長けている。私たちは皆各々が各々の孤独を抱えて生きている。その意味で私たちは皆「異人」たちである。『異人たち』は、私たち一人ひとりがもつ孤独に寄り添い受容してくれる作品であり、観客がアダムの心情を汲み取ろうとしたり共感したりしたのであれば、それは観客がアダムに歩み寄ろうとした結果だ。

 ただ、この作品は「異人」たちの中でもさらに周縁化されてきた人物が主人公であるということを忘れてはならない。私たちはアダムの孤独に共感できるかもしれないが、その孤独を完全に理解することはできない。アダムの孤独はアダムの経験から生まれたものであって、それは両親の死に加え、ゲイであることが死と結びついていた時代・社会を生き延びたという限定的な環境あってこそである。それを安易に一般化・普遍化してしまうことには、構造的差別を透明化してしまう可能性と一種の暴力性が伴うことを留意しておくべきだ。

 繰り返しになるが、人は他者を完全に理解しきることはできず、孤独や苦しみといった個人が抱える問題は結局はその人だけの問題である。しかし、人は他者を慈しみ寄り添うことができる。そこに人間の尊さがある。そう思わせてくれる作品だった。

舞台版ブロークバック・マウンテン

 

こちらのブログの個人的補足レポです。シーンの説明等含め詳しくはこちらを読んでください。

 

ranran-k.hatenablog.com

 

想定より長くなったので要約すると

です。

 

 

 

シーン1

オープニング~出会い~酒場

  • 観客が劇場に入ったときから既に舞台上のベッドで寝ている老年イニス。観客が舞台の一部になるという感覚が湧く。この舞台はホモフォビアイマーシブシアターなので。
  • 最初に老年イニスが若イニスとすれ違うところ、物語(回想)の始まりという感じがしていい。
  • 老年イニスと若イニスの動きがシンクロしたり同じ仕草をする、同時でなくとも同じ動きをする場面(マフラーを脱ぐところやラストシーンなど)が結構あったのが好きだった。
  • イニスがあの歳まで生きたのは希望ではあるけれど、トラウマのせいで死を何よりも恐怖していて、実際死ねるタイミングもなかったんだと思う。
  • 初対面時、品定めするかのような目つきでイニスを見るジャック。もう既にロックオンしてた?顔が好みだったかな?
  • ジャックとイニスは系統は違えど両方コミュニケーションが下手。ジャックは1人でずっとしゃべくるけど対話は下手でうるさい。イニスはそもそも寡黙で会話自体が苦手。真面目だからジャックが適当に話していることにマジレスもする(天然ボケ)。
  • 終始こんなにうるさいマイク・ファイストいるんだ。寡黙なルーカス・ヘッジズはわりといつも通りです。
  • ジャックがずっと黙っているイニスに「絶対に喋らせるからな!」と宣戦布告しているのが可愛い。
  • 酒場でジャックが床に盛大に酒をこぼし、そのままウェイターに酒のおかわりを注文する。ウェイターは酒とタオルを持ってきて濡れた床にタオルを放り投げる。その無言の圧を受けてジャックは会話を止めずに床を掃除する。ほぼ無言でずっと隣にいるイニス。かなりウケてた。

 

シーン2

キャンプ地準備と食事~ジャックのロデオ話と傷自慢~朝食

  • テントを全然上手く立てれずイラつきながら黙々と作業を進めるイニスに話しかけているジャック。ドタバタうるさい。この時点で動きも声もだいぶうるさくて面白いジャック。足癖も悪い。どう見ても多動だけどマイク・ファイストがやると長い手足を持て余しているようにも見えてしまう。
  • 桜に攫われなさそうなマイク・ファイストという新概念。いつももっと儚くない!?
  • イニスにダル絡みをするジャック。ジャックはイニス以外の相手でも、誰に対してもダル絡みしてそうで可愛い。一方ずっとしかめっ面をしているイニス(いつものルーカス・ヘッジズ)。ジャックにダル絡みされても表情が変わらないのが面白い。

 

シーン3

:仕事交代~イニスの身の上話~身体拭くイニス~ジャックのロデオと家族の話~ハーモニカ

  • 「仕事代わってもいいけど」と言うイニス、真面目を通り越して天然ボケ。ジャックは皆にこういう愚痴を言ってそうだけどマジレスされたのは初めてなのか、少し呆気に取られていた。
  • イニスの尻が見える場面は笑いが起こっていた。身体を張ってウケをとりにいくルーカス・ヘッジズという貴重な図。ジャックが既にイニスのことを意識しまくりで可愛い。
  • ハーモニカを何度も手で撫でるジャック。とにかく落ち着きがなくてうるさい。途中でイニスがハーモニカにのって歌ってくれて嬉しそうなジャックと、初めて楽しそうな様子を見せるイニス。平和だった。こういう平穏で輝いた時間が2人にとってのブロークバック・マウンテンを特別なものにしたんだと思う。

 

シーン4

:テント~I’m not queer~イニスを蹴るジャック~取っ組み合い~キス~ジャックを後ろから抱くイニス

  • ジャックがイニスの震え声に半ギレになる場面、イニスの震え声が本当にうるさくて今まで見たルーカス・ヘッジズの中で一番分かりやすい演技だった。これはジャックも睡眠を妨げられる。ここも面白ポイント。
  • テントの場面、音響もホラーだけど照明もテントの中を下方から照らすようになっていて、テントの中の様子を影で見せるホラー演出。
  • ジャックもイニスも恋愛感情より性欲が勝ってそうなのがいい。多分顔と身体が好みだったんだと思う。
  • こういうときルーカス・ヘッジズの外見ってちょうどいいなと思ってしまう。マッチョすぎずクィアすぎない感じ。イニスみたいなキャラをやると「マッチョを目指すクィア」に見えるんだよね。
  • イニスの”I’m not queer”でもうこの旅行全ての元をとった。これがあるのは知ってた。これを見にきた。最高。本当にありがとう。イニスがジャックに背を向けて顔を見せずに言っているのもいい。イニスは自分がゲイであることと向き合わされる時は基本的にジャックに顔を見せないし、ジャックの顔を見ない。
  • ジャックがイニスの背中を見ながら”Me neither”と言っていた顔もよかった。ここは同調しとくか、でもまたか、というような、そんなことを悟ったかのような冗談と諦念の中間のような表情。この時点でもう人生の見方が違うんだから相互不理解にも陥るよ。そう、舞台版ブロークバック・マウンテンは相互不理解ものでもあります。

 

シーン6

:羊混ざった~仕事切り上げの知らせ~イニスが鼻血を出す~山を降りる~別れ、イニス吐く

  • 男と関係をもったこと、誘ったジャックへの憤りを直接はぶつけられないイニス。度胸がない。でもイニスがそうなったのはトラウマと社会のせい。
  • ジャックとイニスがじゃれていたときに勢いでイニスが鼻血を出す。思っていたよりしっかり鼻血を出していた。1回目は額にまで血糊が飛んでいた。心配するジャックと、それを跳ね退けてビッチャビチャに濡れたタオルで顔を拭くイニス。
  • 後のメキシコ喧嘩の時もなんだけど、イニスは身体的不調が現れたときすぐにジャックに心配してもらえる。つまりケアしてもらえるし、それを撥ねつけられる優位性がある。ケアを受け入れることは“男らしく“ないし。
  • 一番システム化されていたのがイニスが鼻血を出す場面な気がする。下手したら怪我するので。
  • ジャック、イニスが忘れたシャツに気がついて声をかけようか一瞬迷っていた。匂いを嗅いで、自分のジャケットの中にしまうジャック。
  • イニスが山から降りて吐いた理由は原作だと「(ジャックを)見失っちゃいけなかった」と説明されている。イニスはジャックと一緒でないとありのままの自分=ゲイとして存在できないので、ジャックと離れたらまずいよね。ただ、ルーカスイニスはそれにプラスして「自分は男と寝た」という強い内面化したホモフォビアもあって吐いたんだと思う。ホモフォビアを強く植え付けられているので、自分がゲイであることを受け入れられない。体調不良になるほどホモフォビアを内面化しているイニス、哀れ。まあこれもめちゃくちゃ見たかった。こんな分かりやすい描写をルーカス・ヘッジズがもらえることあるんだ。ありがとう。
  • 鼻血とか嘔吐とか、身体的不調と暴力担当がルーカス・ヘッジズなの、原作通りとはいえ安心感がある。マイク・ファイストがやるとフェチとして消費される可能性がある。

 

シーン7

:イニスの結婚生活~排水壊れる

  • イニスの結婚式、イニスはジャケットを変えるだけ。老年イニスが草むらから結婚式のジャケットを引っ張り出していた。
  • イニスが子どもを1人抱いて、もう1人はカゴの中に寝かせて2人いっぺんに運ぶ場面があった。全編通してイニスが一番人を丁寧に扱っている場面。赤ん坊相手だから当然ではあるんだけど、それが目立つくらいにはジャックと妻アルマの扱いが酷い。ジャックは毛布を粗雑に投げたりイニスを蹴ったりするけど、イニスの方がジャックの扱いが雑。所有物としか思ってないから人間として尊重してない。アルマに対してもそう。最悪だね。キャラとしては大好き。
  • ここでイニスが歌う子守唄は”Jack’s Theme”のアウトロ。イニスが死んだ母親に歌ってもらっていたもので、ジャックを抱いている時にも歌っている。
  • 歌うのはイニス、ルーカス・ヘッジズの方なんですよねこの舞台。
  • 排水が壊れる場面、勢いよく水が飛んできて驚いた。
  • イニスの「俺はお前の夫なんだから俺の言うこと聞いてればいいんだよ」、シンプルにモラハラ野郎で嫌。「修理工は呼ばないって何度も言っただろ!」と怒鳴ってもいた。嫌すぎる。いい有害男性。こういうのも見たかった。

 

シーン8

:ジャックからの手紙~再会のキス

  • 再会のところ、イニスから嬉しそうに”Son of a bitch!”とキスしに行っているのがよかった。イニスがジャックを待ち侘びていたことがわかるし、イニス視点の物語であることが強調されている。ジャックも”Son of a bitch!”と駆け寄っていた。
  • キスを大袈裟にして観客を笑わせる場面だけど、2回目は観客の笑いが今ひとつだったのでイニスがアルマにジャックを紹介する台詞を雑に言っていた。ここで絶対に笑わせる、観客をクィアを嘲笑させる装置にしてやるという意地。こんなルーカス・ヘッジズ初めて見たし二度と見られないかもしれない。

 

シーン9

:ベッド~ジャック全裸ダッシュ~二人で暮らそう

  • 照明がピンク。いきなりどうした。
  • ピロートークでベルトのバックル自慢をするジャックとその話を無言で聞いてるイニス、だいぶ面白い。やはりショートコント:ブロークバック・マウンテン
  • ジャックが奇声を上げながら全裸で走り去った時、取り残されたイニスのぽかんとした顔も面白すぎた。ジャックが酒を片手に下着を履いてベッドに戻ってくると突然宗教画みたいになるからわけがわからない。
  • マイク・ファイストのファンはこの全裸ダッシュを見てどう思ったんでしょうか。私は困惑しました。
  • イニスに抱かれながらイニスの左手を意識して、ずっと触っては見つめているジャック。じっとしていられないのもあるし、一緒には暮らせるかもしれないけれど、決して結婚できない事実を再認識しているようで切ない。

 

シーン10

:アルマとイニス仕事の喧嘩~ベッド~ピル投げ捨て

  • イニスにとって妻子がいることは男としてのステータスだし、自分がこの社会で“普通“の男として存在するためには必要なもの。社会がイニスにそうさせているのだけど、有害男性そのもの。妻のことを所有物だと思っている。
  • ピルを投げ捨てるルーカス・ヘッジズまで見せてくれるんですか!?有害男性をやらせるとルーカス・ヘッジズは輝くんですよ。ありがと~!
  • 原作とスクリプトではピルを投げ捨てるのではなく、コンドーム拒否。それが改変されてピル投げ捨てになっている。投げ捨てられたピルを回収するアルマの姿が痛々しくて、アルマに主体性をきちんともたせた舞台版としていい改変だったと思う。
  • 原作ではイニスが怖がるアルマを同意なしに無理やり抱くシーンがある。ルーカスイニスにそれをやらせたら流石に怖すぎるのでナイスカット。そしてイニスに優しい。
  • 舞台版のアルマはピルを飲める前提があればセックスに乗り気だったし、いそいそと支度してベッドでイニスを待っていたアルマは可愛かった。観客にもウケてた。観客を笑わせた後すぐにシリアスシーンがきて場が凍る舞台。
  • イニス、本編外でアルマを殴っていてもおかしくないほどにはアルマへの態度が最悪なんだけど、殴る度胸はなさそうでいい。

 

シーン12

:On the Hawk’s Back~離婚した報告~トラウマ暴露会

  • イニスはホモフォビアを内面化した有害男性だけど、それにプラスして子どもの養育費問題とかで諸々を責任転嫁する・正当化するので本当にたちが悪い。絶対身近にいてほしくない。フィクションにいる分には好きだよ!
  • それぞれのトラウマは原作では別々に語られていたしジャックのトラウマに関してはイニスの回想になっているのに一気にぶつけてきたの、どう考えてもここがこの舞台の見せ場、メインディッシュです。ありがとう!
  • ジャックがイニスの記憶の中という客体化された姿でなく主体性をもっていて、生身のぶつかり合いにさせたのは天才。イニスが知りえなかった、知ろうとさえしなかったジャックの内面が分かる作りになっている。舞台版ブロークバック・マウンテン、これがやりたかっただけでしょとまで思う。
  • ルーカス・ヘッジズの父親絡みのトラウマ話には慣らされているので安心して見られた。いつものルーカス・ヘッジズだった。父親にトラウマを植え付けられて拗らせてる役をやりたいんだよね、安定してたよ。生で見られて嬉しい。ありがとう。
  • 一方マイク・ファイストは、特に初回は、大笑いしながら泣いていたので本当に心配になった。情緒がぐちゃぐちゃになっていた。
  • ジャックはずっとヘラヘラしていて足癖も悪いんだけど、そうしていないと自分を保っていられない保身行為であることがこの場面で分かってよかった。
  • マイク・ファイストとルーカス・ヘッジズにこの場面をやらせようという発想がもうすごい。ここで2人の演技をぶつけさせることで、それぞれのトラウマがいかほどのものか、それによってどれだけ苦しめられているかがはっきり分かる。
  • ジャックは「自分は粗雑に扱われて然るべきなんだ、人とは違うんだ」と3~4歳の頃に思い込まされてしまったし、イニスはありのままの自分として生きる道を選んだらその先は死だと理解させられてしまっている。2人それぞれの苦しみや生きづらさをここで爆発させてぶつけ合わせたのよすぎる。
  • こことメキシコ喧嘩が主演2人の演技対決みたいで見応えがあった。目の前で見られて嬉しい。

 

シーン13

:再婚相手の家~釣りバレてた

  • イニスのアルマに対する逆ギレは、原作とスクリプトだと「イニスがアルマの手を掴んで皿を割る」だけど「妊婦相手に怒鳴り散らかす」に変更されていた。それでもイニスの加害性と怖さがビシビシと伝わってくるのはさすがルーカス・ヘッジズ…。いずれにしても最悪だよ。ルーカス・ヘッジズスクリプト通りやらせると本気で怖すぎて観客もドン引きすると思うのでいい改変なのではないでしょうか。
  • イニス、アルマの前では常にホモフォビアと有害な男性性しか見せてない。ホモフォビアを植え付けられたクィアとしての苦悩ではなく、ホモフォビア
  • 2回目、イニスが皿を取るのに手間取ってて舞台だ~と思った。本当に汚い皿を洗ってた。皿はその後ずっとそこに放置されてるし。

 

シーン14

:Hale Strew River~わざとらしく誘うジャック~メキシコ喧嘩~イニス過呼吸

  • ジャックはトラウマのせいで「自分は粗雑に扱われていい存在なんだ」と思っている。イニスの見ている現実も見えてはいるけど、一週回って全てを諦めて楽観思考にもっていってるんだと思う。マイクジャック、無自覚かもしれないけど全てのベースに諦念がある。逆にイニスはこの社会で“普通“に生きることを諦めたくないんだと思う。ちょっとそれ大変かも~…。
  • 喧嘩の場面、唯一ジャックが真剣に自分の感情を出して怒りを吐き出す場面なのに2回目は途中で笑ってしまっていて辛かった。マイクジャックは辛いとき、追い詰められたときに無意識に笑ってしまう子。マチソワある日のマチネだったからセーブしていたのもあるかもしれないけど、多分イニスの激昂の圧が強すぎたせい。ルーカス・ヘッジズの加害演技のガチさ、マイク・ファイストの情緒がめちゃくちゃになるレベルということで伝わります?マイク・ファイストが可哀想。心配。奇跡の化学反応だよ。
  • ジャックが「俺たちにはブロークバック・マウンテンしかない」と言うの大好き。ジャックは他の男と幸せな暮らしをしようと思ったら安全とはいえないもののできたはず。ジャックにとってあの山は平穏で幸せで輝いていた青春の象徴かもしれないけど、本当にあの山/ジャックしかいないのはイニスの方。哀れ。イニスにはジャック以外と関係をもつような度胸はないので、あの山で共に過ごしたジャックの前でしか本来の自分として存在できない。
  • イニスがジャックのメキシコ行きにブチギレているのはジャックを所有物だと思っていて他の男と自由に関係をもつのが癪だからで、その姿は支配欲の塊。でもそれだけじゃなくて、自分がありのままで生きられない社会への怒りがある。イニスの加害性は社会への怒りを内包している。それに加えて、痛切に感じている同性愛=死という構図から目を背けて楽観的でいられる(ように見える)ジャックへの「俺は現実を理解して“弁えて“いるのに、なんでお前には分からないのか。なんでそんなに楽観的なんだ」という怒りもある。社会規範に雁字搦めになってはいるものの、イニスからしたら真っ当な怒り。
  • ただしジャックの主張も正論だし一貫している。しかもジャックからすると理不尽に逆ギレされている状態。他の人たちが幸せに暮らせるのなら自分たちだって幸せになれるだろう、そうじゃなきゃおかしい、そうあるべきだと思っている。ここがもう人生の解釈・解像度の違い。ジャックが人生を楽観視しているのではなくて、ジャックの人生観と精神構造がそうなっている。ジャックにとっては人生はもっと軽くて、楽しむしかないもの。だからイニス以外とだって関係をもつし、それが悪いことだとも思わない。ジャックだって現実はよく分かっている。イニスみたいなタイプを選んだのも世界は自分の思い通りにいかないと信じきった結果なんだと思う。「2人で一緒に」幸せになれたのに、とやっと自分の願望や怒りを表に出せたジャック。
  • 相互不理解の極みですが悪いのは社会です。
  • ジャックが嫌なことから目を背けて不貞腐れるような子どもっぽさがあるとしたら、イニスは自分が優位に立てる相手に八つ当たりする幼稚さがある。そりゃうまくいかないよこのカップル。
  • イニス、すぐ体調に影響が出るのずるいよね。そんなのジャックはケアに回っちゃうよ。元からジャックはケアラー側の人間だし。そしてやっぱりケアを撥ねつけるイニス。ここも「他の男とも関係をもつような男と自分は同性愛関係にあるんだ」みたいなホモフォビア由来の生理的嫌悪感がありそう。ただでさえ自分がゲイであることを受け入れがたく思っているのに。ジャックにもホモフォビアを向けるイニス。
  • ジャック、ケアラーなのに他人からは「あいつにケアなんてできるわけがない」と思われてそう。本人もケアしている自覚がない。

 

シーン15

:ジャックの死~電話

  • ジャックは死後妻に「ブロークバック・マウンテンは戯言だと思ってた。よく飲んでたし」と言われている。ジャック、自分の話は真剣に聞かれないという前提にうるさくしてそう。別に聞いてもらわなくていいし、そもそもちゃんと聞いてもらったことがなさそう。だからイニスにマジレスされたとき少し呆気にとられるんだよね。
  • ジャックが真剣に言えたのがメキシコ喧嘩の「いい暮らしが送れたのに!」だけで、それ以外はこういう風に軽く受け止められてきたんだと思う。メキシコ喧嘩、頑張ったね。それがイニスのせいで…体調不良は仕方ないけど…。
  • 老年イニスがいきなり“Tire Iron!“と説明してた。ルーカス・ヘッジズ、意地でも口で説明したくなかったんだな。ルーカス・ヘッジズは口で説明せず表情だけで演技させられがちです。いい俳優だな~。

 

シーン16

:ジャックの家~ジャックの部屋でシャツを見つける~イニスの家

  • ラストシーン、初回はイニスの背中しか見えない席だったので、どんな顔をしているのか想像を膨らませていた。2回目反対側から見ると顔をシャツに埋めて全く見せてくれなかった。そんなの大喜びしちゃうよね。これも見ていいんですか!?私はルーカス・ヘッジズが顔を覆い隠している姿が大好きなんですよ。そもそも表情でしか語らせてもらえない俳優なのに、表情さえ見せられなくなるのはそれだけ感情が溢れて追い詰められているからです。『mid90s』とか『waves』で見られます。え~好き~~。
  • シャツに顔を埋める若イニスと(記憶の中の美しい)ジャックを後ろから抱きしめる老年イニスという美しい構図。若イニスはある種限界になっているけど、老年イニスはここで思い出に浸り癒されていた。
  • ジャックはほとんどの場面で美化されていない生身の姿だけど、ここのマイク・ファイストは「イニスの記憶の中のジャック」に徹していて、安らいだ顔をしながらも輝いていてよかった。

 

その他

:どこだか忘れたところとか雑記

  • 劇場が寒い。とにかく寒い。
  • 口から勢いよく何かを飛ばすジャック。
  • 倒れそうになった酒瓶をすぐキャッチして戻すジャック。
  • 台詞を噛んで言い直すルーカス・ヘッジズ。舞台ならではの姿だ…!
  • ジャックはすこやかだったけどマイク・ファイストは情緒めちゃくちゃだったし、イニスは情緒めちゃくちゃだったけどルーカス・ヘッジズはすこやかだった。なんなんだ。
  • あからさまに当て書きだなというところもあったしキャスティングありきの演目ではあったけど、脚本構成と舞台演出が素晴らしかった。
  • 主演・脚本・演出が映画に明確に対抗して「絶対ラブストーリーにしてやらないからな!」という勢いで「ショートコント!暴力!ホモフォビア!有害な男性性!相互不理解!」をゴリ押していたのがよかった。
  • ロマンチックなラブストーリーではなく、ホモフォビアと有害な男性性、ヘイトクライムの話に仕上がっていて、暴力にフォーカスしている。カリカチュアされていないこれらの要素を肌身でリアルに感じる体験はそうそうないし怖かった。観客に直接責任を問わず、それどころか気づかれずにクィアを監視、嘲笑させ、圧力をかけさせる舞台、凶悪。観客が問答無用でホモフォビアの蔓延った社会として装置化され、当時の閉塞感が演出されている。
  • 客を呼ぶのにラブシーンを公開したの不本意だったろうな…。まあ主演2人ともあんまりラブストーリーは似合わないし…。
  • 客入りがよくなかったらしいのは、主演2人のファン層のかぶらなさ(片方しか知らない人が結構いると思う)や情報解禁時に「今ブロークバック・マウンテンをやるの?」という率直な疑問があったからなんだろうな。
  • ジャックとイニス双方にとって穏やかで青春の象徴であるあの山が特別であること、それはそれとして歪で不健全な共依存関係であること、このバランスが上手い。両立している。
  • @sohoplaceの規模感と劇場の作りが作品に合っている。どこからでも見やすくて、それはつまりクィアを監視する社会としての機能を果たしているということ。主演2人がコメント動画で劇場の話しかしていなかったのも頷ける。
  • 観客のリアクションが大きい海外の舞台だからこそ起こる笑いが沢山あった。日本だとあそこまでの笑いは起きないと思う。
  • 「俺が考えた最強のブロークバック・マウンテン」という夢のキャスティングだけど主演がこの2人でないと成立しない舞台だった。ショートコントが挟まるのも、喧嘩をはじめ絡むシーンやトラウマ暴露会の応酬も、奇跡の化学反応だった。各々が得意とする演技を全力でぶつけながら、相手の得意な演技を最大限に引き出していて、しかも調和していた。各回で異なる演技の応酬があるのだから圧巻。
  • 情報解禁の時点で約束されしものがあったけど、マイク・ファイストとルーカス・ヘッジズが各々好き勝手やりたい放題やって最高の化学反応を生み出していた奇跡の舞台。
  • フェチや美しさに走らなかったのは凄いと思う。ヘイトクライムがまだ存在し続けていること、社会規範に苦しめられる人がたくさんいることを忘れてはいけない。悲惨な現実を描く作品もハッピーな作品があふれる時代に必要。しかもこの舞台はラストシーンを除いて美しさがノイズにしかならない作りになっている。90分一切無駄のない作品だった。完成されていた。
  • 老年イニス、若イニスの説明役を担いながらも過去の自分の行いを悔い、思い出を愛しく思って癒されるいい演技をしていた。
  • 老年イニスがいること自体がこの演出脚本の優しさだと思った。物語から切り捨てられてもおかしくないくらいには若イニスの加害性が強かった。でもスクリプトを読んでわかりました、これルーカス・ヘッジズが張り切っちゃっただけだ~!当て書きみたいなもんなのに高みを目指しちゃって…ありがとう。イニス、最高の有害男性だったよ。
  • 情報が解禁されたとき、主演2人の名前しか出ていなくて2人芝居でも成立するのではと思っていたので、アルマがいたことも老年イニスの存在も手厚さしか感じない。ルーカス・ヘッジズが活き活きと有害男性ができるように、極力喋らなくて済むようにしていて…。
  • 原作のイニスが兄からいじめられていた設定が消えていたのは尺の問題なのかな。イニスのマッチョへのプレッシャーは十分に伝わったけど。
  • ルーカス・ヘッジズホモフォビアを内面化したクィアかつ有害男性の真骨頂を生で見られて嬉しい。イニスをやると知った時点で分かってたけど期待値を遥かに越えられると感極まっちゃうよね。好きな演技をする好きな俳優の好きなもの全部のせのキャラを生で見られるなんてことあるんだ。しかも舞台仕様の大きめの演技で。一生の宝にする。

 

ルーカス・ヘッジズの有害男性演技が気になった方はとりあえず『mid90s』と『ハニーボーイ』を観てください。