『異人たち』感想

 他者との関係性の再解釈という内省を描き、いま世に溢れているハッピーでキラキラしたクィア作品は何を取りこぼしているのかを浮き彫りにした傑作だった。

 

 大体パンフに書いてあることと同じ感想だったので、主に家族関係の再構築とホモフォビアについて書きます。ネタバレがあります。

 

 

 

 主人公のアダムは両親を幼い頃に亡くし、ゲイであることから、他者との関係性をうまく築けず孤独を抱えている。その背後には「自分は愛されている」という感覚の欠落があり、精神的な自立ができない状態である。この物語ではアダムが両親との関係・ハリーとの関係の再解釈を行い、内省の旅をする。

 親と築いた関係性の再解釈は『ファンホーム』や『アフターサン』が同じことをやっている。「あの時、自分は親に愛されていたのかもしれない」「あの時、親は苦しんでいたのかもしれない」と、考えても答えのでないことに思いを巡らせる。そこには懐古だけではなくて「親と自分の関係性がこうであってほしかった」という願望と、親を慮り親の心に寄り添う気持ちが含まれている。『異人たち』では、アダムはこれに加えて「もし今の自分を見たらこう思うかもしれない」という想像と「自分が表現したものにこういう反応をしてほしい」という願望を想像上の親に投影している。そうしてアダムは家族関係の再構築と家庭の再生を目指している。

 イマジナリーペアレントなのだから自分の都合のいいように反応してもらえばいいものを、両親はアダムのカミングアウトに対して、露悪的でないにせよホモフォビアと拒否反応を示す。そうすることでアダムは自分の想像にリアリティを付与し、「望まないカミングアウト」をされる親の心に寄り添うと同時に、拒絶されることに少なからぬ安心感を得ているのだと思う。拒絶されることは何かしらを期待されていたこと(この場合は"当然"ヘテロであること)、気にかけられてはいたことの証左だからだ。

 ステレオタイプなゲイ像を押し付けられたりホモフォビアを受けたりしたいという願望は、アダム自身が経験し内面化したホモフォビアの恐怖を妥当だとする意味付けがあるのではないだろうか。ある出来事に対して自分が抱いた感情が妥当であるかを推し量ることは時に困難だ。ホモフォビアによって傷ついたアダムの心は、想像の中の両親に一度カミングアウトに拒否反応を示させることで「親でさえこういった反応を見せるのだから、他人なら尚更自分に酷いことをするはずだ」「だから自分が辛く感じるのは当然である」という妥当性をもつ。つまり、両親の世代なら拒否反応を示すことは仕方ないというリアリティと、そのような反応をしてしまう(であろう)両親への寄り添いに加えて、自分が傷ついてきたことの妥当性の証明にもなるのだ。

 そもそも、まず公園で父親に自分を見つけてもらうことが「親に自分の感情、特に苦しみや辛さに気が付いてほしかった」という欲求の表れではないだろうか。「自分が泣いていた時、父親は部屋に入ってきてくれなかった」という事実にも「父親も自分との関わり方がわからなかっただけだ」と理由を付けたいのではないだろうか。実際のところ両親がどこまでアダムを気にかけて寄り添っていたのか、生きていたらどれだけ寄り添ってくれたのだろうかはわからずじまいだ。両親それぞれとアダムの対話は、アダムの想像と願望による一人相撲に過ぎない。

 それでもアダムは両親からの受容を求め、それを(想像上であるにせよ)獲得することで、自己を受容することができるようになる。「両親にありのままの自分を受け入れられたい」「愛されたい」という欲求を満たし、ハリーと共にゲイとしての人生を歩み直そうとする。同時に両親の死を克服し、精神的自立を果たそうとする。アダムの立場はここで「ケアしてもらう/愛される」側から「ケアする/愛する」側へと転換する。ハリーを慮り愛情を見せることで、自分と同じように孤独や痛みを抱える人をケアしたい・他者を愛したいという欲求も叶えている。

 けれども両親もハリーもアダムの想像上の存在に留まっているわけで、客観的に見てアダムが他者との関係性を築き上げることができた・精神的に成長できたとは言い難い。一度できてしまったしこりは解消されたように見えても「しこりがあった」事実は消せないし、アダムにできることは結局のところ現状維持だけなのだ。そこには希望も絶望もない。ただ現実だけがある。ある一つの孤独(アダムの場合は両親の死)を克服できたとしても、他の要因からなる孤独を克服できるかは別の問題である。そして、アダムのような人は星の数だけ無数にいて、アダムと「生きた」ハリーが関係を築けなかったように、孤独と生きづらさを抱えた人同士でも繋がれない現状がある。 ただ、孤独を抱えていることそのものを否定的に描くのではなく、むしろ誰しもが孤独をもっていることを前提に、時にそれを克服する必要はないのかもしれないということを描いている点において、この作品は優しい。

 ここまで「両親とハリーはアダムの想像上の存在である」という解釈で書いたが、もちろん主体性をもつ幽霊のような存在として捉えることもできるだろう。ゴーストストーリーとして解釈するならば『ねじの回転』のような英国らしさをもった幽霊譚の印象を受ける。明かりが二つしか灯っていないタワーマンションは墓標のようであり、エレベーターの合わせ鏡は現実と虚構が入り混じる様を思わせる。結局どんな解釈をしようとも、誰(何)がどのように存在していて、何が真で何が偽なのかは不明瞭な物語だと思う。

 昨今「クィア」という言葉にはキラキラと輝いたイメージがあるが、この作品ではマンションの部屋の明かりやラストシーンの光は孤独の象徴として描かれている。本編でも言及されたように今はポジティブな意味で用いられる「クィア」という用語自体が元は侮蔑語として使われ、今も言葉を聞くだけでその痛みを思い起こさせられる人々がいる。ホモフォビアエイズなどによって、ヘテロでないこと=死という恐怖に曝されてきた人が突然「今はもう時代が違うんですよ」「あなたみたいなクィアも幸せな人生を送れますよ」と言われたとして、すぐにその環境に順応できるのだろうか。苦しい時代に取り残されてしまっている人はいないだろうか。

 私たちは今現在もホモフォビアに苦しめられている人がいることを忘れがちなのではないか。ハッピーなクィア作品はクィアをエンパワーすることを全面に押し出しているものの、こういったホモフォビアのリアルな痛みや苦しみを抱える人たちを取りこぼしているように思える。『異人たち』は昨年上演していた舞台版『ブロークバック・マウンテン』に続いて、そのような人々を掬い上げる作品だった。

 アンドリュー・ヘイは「人と人は完全には理解し合えない」という孤独と「それでも寄り添い合うことはできる」という慈しみの表現に長けている。私たちは皆各々が各々の孤独を抱えて生きている。その意味で私たちは皆「異人」たちである。『異人たち』は、私たち一人ひとりがもつ孤独に寄り添い受容してくれる作品であり、観客がアダムの心情を汲み取ろうとしたり共感したりしたのであれば、それは観客がアダムに歩み寄ろうとした結果だ。

 ただ、この作品は「異人」たちの中でもさらに周縁化されてきた人物が主人公であるということを忘れてはならない。私たちはアダムの孤独に共感できるかもしれないが、その孤独を完全に理解することはできない。アダムの孤独はアダムの経験から生まれたものであって、それは両親の死に加え、ゲイであることが死と結びついていた時代・社会を生き延びたという限定的な環境あってこそである。それを安易に一般化・普遍化してしまうことには、構造的差別を透明化してしまう可能性と一種の暴力性が伴うことを留意しておくべきだ。

 繰り返しになるが、人は他者を完全に理解しきることはできず、孤独や苦しみといった個人が抱える問題は結局はその人だけの問題である。しかし、人は他者を慈しみ寄り添うことができる。そこに人間の尊さがある。そう思わせてくれる作品だった。